「工業をやりたい」「商業をやりたい」とは言いませんが、「農業をやりたい」という言葉はよく耳にします。それは、農業が単なる職業ではなく、暮らし方や生き方とも深く結びついているからかもしれません。かつて、食べものを育てることは特別なことではなく、日々の生活の延長にありました。しかし、近代化や高齢化が進むなかで、今治の山あいに広がる里の風景も、時代の変化とともに姿を変えつつあります。
こうした流れのなかで、今治では農業との向き合い方をあらためて考えようとする動きも生まれています。2024年3月には市が「オーガニックビレッジ宣言」を行い、受け継がれてきた豊かな土壌や農の営みを次の世代につないでいく一つの方向性を示しました。農業をめぐる選択肢や関わり方も、少しずつ変わりつつあります。
本連載「#今治を耕す人」では、地域の風景を守りながら、一次産業に関わる人々にスポットを当て、田んぼや里山といった身近な風景を支える日常や苦労、喜びを追いかけます。
今回紹介するのは、今治市立花地区で40年以上にわたり農業を営み、学校給食へ野菜を届けてきた農家・今村伊都子さん。「安心安全なものを子どもたちに届けたい」という熱い思いを聞かせていただきました。
目次
今治市中心部にほど近く、住宅地としても人気の高い立花地区。現在は市街地の一角として知られるこの地域も、かつては水田やレンコン畑が広がるのどかな田園地帯だった。地域を流れる御物川(おものがわ)は、暮らしと農を支える身近な存在であり、その水は下流で蒼社川と合流する。

この立花地区では、長年、学校と地域が連携した農の取り組みが続いてきた。その背景には切実な「環境への危機感」があった。
1980年頃、御物川の上流に、市内の学校給食を担うための大型調理場を建設する計画が持ち上がった。当時、下水整備が十分でない中で大量の洗剤排水が川へ流れ込めば、下流の田畑に影響が出る。そう考えた地域の住民や農家たちが声を上げた。
「大きな給食センターを作るのではなく、自校式にしてほしい。子どもたちのために、自分たちが無農薬の野菜を作るから」
農家たちは有志で「立花有機研究会」を立ち上げた。その中の1人が、今村さんの父だった。
この切実な訴えは行政を動かし、そして見事、鳥生小学校を皮切りに、立花小学校、城東小学校(現在は吹揚小学校に統合)でも自校式給食が実現。地域の農家が作る有機野菜が子どもたちに届く「地産地消の給食」が、全国的にもいち早く実現した。
立花有機研究会では、食べ物や野菜作りについて学びながら、有機農業の手法を模索してきた。当時は有機農法に関する文献も少なく、視察に出かけて情報を集めることもあったという。
そんな父の姿を見て育った今村さんも、自然と食べ物に関心を持つようになり、30歳の頃、それまで勤めていた保育士の仕事を離れ、有機野菜作りの道へ進んだ。
以来約40年、農薬や化学肥料に頼らない野菜づくりに向き合っている。
今村さんが大切にするのは「土」だ。
「今年は大根が引き抜きにくかったから、ちょっと土が締まってきたんやな。落ち葉や枯れ草を使ったりしながら、工夫していかんと。」

土の状態を丁寧に観察しながら、長年の知識と経験をもとに土のバランスを整えていく。病害虫対策には農薬を一切使わず、草の抜き取りもすべて手作業だ。
「寒くても鼻水ふきながらでも、やらないかん」
こうした地道な努力を重ねながら、1年を通して10種類以上の野菜を育てる今村さん。ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎ、大根、カブ、かぼちゃ。どれも学校給食には欠かせない。
かつては研究会のメンバーと毎月集まり、誰がどの野菜を作るかを話し合いながら、学校給食を支えてきた。
「誰も作っていない野菜があったら、『ほな、わしが作るわ』と引き受ける人がおった」
今村さんが忘れられないと話すのは、同会の会長を務めていた故・越智一馬さんの姿だ。
「作りにくいから作らん、じゃなくて、必要なら自分がやる。その姿勢が、真の“上に立つ人”やと思った」
志をともにする仲間たちと、手分けしながら野菜作りに取り組んだ。
しかし時代とともに仲間は減り、現在、日常的に学校給食に有機野菜を届けているのはわずか4人だけ。朝7時に学校まで野菜を届ける当番制の生活が続く。
少しでも仲間を増やそうと、市の農業講習会に参加し、そこでの参加者とともに「学校給食勉強会」を立ち上げた。
「少しずつでも農家が集まれば、給食を支えられる」
そう信じて、有志で給食会へ野菜を届けたが現実は厳しく、作業の負担や生活との両立の壁に阻まれ、多くは長く続かなかった。
それでも今なお、今村さんが有機農業を続ける理由は、明確だ。
「『食』って漢字は、『人を良くする』って書くでしょう。食べるものは、人を良くするもので、体を悪くするものじゃいかん」
かつて外食で食べたキャベツから覚えた、化学肥料を思わせる味への違和感は、今も記憶に残っている。
「土にまいたものは、全部野菜が吸う。それを食べるのは人間やからね。特に育ち盛りの子どもたちは、これから体を作っていくわけやから、自分が出すものにはこだわりたいんよ」

有機野菜は収量が減り、手間もかかる。価格を上げなければ生活は成り立たない。
「ほんの一割、二割の違いで、安心でおいしいもんが食べられるなら、その価値はあると思うんやけどね」
それでも現在、市場に出回る今村さんの野菜は、他の野菜とほとんど変わらない価格で販売されている。より多くの人に味わってもらおうと、暮らしの中で無理なく選ばれる形を探り続けているからだが、持続可能な農業のためには収益性も無視できない。
そこで今村さんが今、目を輝かせて語るのが「ニンニク栽培と加工」への挑戦だ。
「ニンニクは栄養の頂点。これを熟成させて『黒ニンニク』にすれば、さらに価値が光る。健康にもいいし、日持ちもする。ひらめいたんよ!」

73歳にして、新たなチャレンジに意欲を燃やす今村さん。しかし今村さんのこうした姿勢は、実は今に始まったことではない。
実は今村さん、かつて自宅の敷地内に工房を構え、パン作りにも取り組んでいた。きっかけは保育士時代にまでさかのぼる。
「私が最後に勤めた保育園に、自閉症の女の子がおったんよ。言葉が出ん、いうたら、不自由やなって思ってね。」
今村さんは保育園を辞め、大阪まで学びに通い、やがて今治に「ことばの教室」を立ち上げた。教室では、子どもたちの将来の自立を見据え、保護者とともに「仕事の場」を模索。その一つとして始めたのがパン作りだった。
「最初はみんな素人。にんじんやかぼちゃ、りんごなどを発酵させる技術を学んで、それを活かして色々なパンを作ったんよ。小麦にもこだわって、自分のとこで作ってね」
その後もパン作りは20年ほど続き、母の介護をきっかけに、惜しまれながらも幕を閉じた。
「子どもたちのために、何とかしてあげたいっていう気持ちは、いつも根っこにあるんかもしれんね。それが原動力になっとるんよ」
農業をやっていてよかったことを尋ねると、返ってきた答えも、やはり「子どもたち」だった。中でも楽しみにしているのが、毎年、立花小学校の3年生が畑を訪れる「農家の仕事」の授業だ。
ズッキーニやピーマンが育つ畑を子どもたちと一緒に歩くと、「これ何?」「あれ何?」と次々に質問が飛んでくる。
さつまいもには黒いマルチ、ピーマンには白いマルチ。
「どうしてやと思う?」
そう問いかけると、子どもたちは畑をじっと見つめ、やがて「分かった!」と声を上げる。
「子どもらが気づいて、『あっ』って言う瞬間があるんよ。それがうれしい。若い子と話すと、こっちが元気をもらえる」

行政の支援、販路の確保、担い手不足。課題は少なくない。それでも、先人たちが築いてきたこの取り組みを「ぶつかって終わらせたくない」という思いが、今も今村さんを畑へと向かわせる。
「日本でも珍しい、有機の学校給食やと思う。それを“続ける”ことが、どれだけ大事か」
サラリーマン生活を終えてから、二人三脚で野菜作りを続けてきた夫は78歳になった。娘2人はそれぞれ家庭を持ち、現在はカナダと大三島で暮らしている。後継者の不在は気がかりだが、孫娘が農業に関心を示していることが、今村さんにとって小さな希望でもある。
「できることなら、継いでほしい」
土を信じ、人を想い、子どもたちの未来へつなぐ。
今村さんの畑には、その覚悟と願いが、息づいている。
